空白のケモノとはなんだろう。

 

絵なのか。

線なのか。

いきものなのか。

 

紙にボールペンで1本の線を書く。

書き始めたところへ、また戻る。それでお終い。

 

「空白のケモノ」とちゃんと文字にした時(空白は漢字で、ケモノはカタカナでと決めた時)、ケモノのケは「晴れと褻」の褻だよなと思って、そのことが「ああそうかぁ。そうなのかぁ。」と根拠もなく自分の中でストンと腑に落ちたのを覚えている。だからケモノなんだなぁと一人で納得したことも。

 

これまで何匹かのケモノを書いてきたなかで感じたこと。

見たことも、聞いたことも、嗅いだこともあるものからしか「空白のケモノ」は現れてくれていないということ。

見たことも、聞いたことも、嗅いだこともない、そんな場所に住んでいるとされている「空白のケモノ」は、見たことも聞いたことも嗅いだこともある。要は、知っているまたは、忘れている、ところから生まれてくるということ。

 

生まれてくる、じゃないかもしれない。。。

 

そこで生きている。

 

としたら、私が知っている、忘れていることは、空白のケモノによって作られたことになる。

ということは、すごく大雑把に考え方を飛ばしてみれば、空白のケモノによって私は作られているとも言える。

 

会ったことがないはずの空白のケモノに私はすでに知っていた。

なのにそのことを忘れて、今になって、初めましての気分で「空白のケモノ」に再会している。

 

知るということ。

記憶されていること。

思い出として取り出しできるもの。

からだしか覚えていないこと。

からだが求める自分のからだ以外の記憶。

 

好奇心。

欲求。

 

まだ出会っていないケモノに会いたい。

 

自分が未知と思っているだけで、世界ではたくさんのことが起こっている。

それは遠くでも近くでも等しく。

距離は超えられる。ケモノがいれば。

 

咄嗟に出た言葉で、ふやふやした感じもするけれど、今日はこのまま残しておこう。